犾
(引用)
犾
2016年03月10123456日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾
(引用)
犾
2016年03月11日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾大震災5年:3・11列島ドキュメント
多くの被害をもたらした東日本大震災の発生から5年。「3・11」を迎えた各地の表情を追った。
◇6時00分
岩手県宮古市が津波避難訓練。防災行政無線のサイレンが鳴り、宮古小学校に避難した米穀販売業、中村善市さん(81)と妻豊子さん(80)は「津波は来ないと高をくくっていたので慌てて逃げた。とにかく避難が大事」と5年前を振り返った。
◇6時35分
海抜12メートルの指定避難場所で50人以上が犠牲になった宮城県気仙沼市の杉ノ下高台で、慰霊碑に手を合わせた船舶修理業、平田季右衛門さん(82)は「これが妹夫婦、これは同級生」と裏面に刻まれた氏名を確認していた。
◇8時00分
元町長を含む職員40人が犠牲になった岩手県大槌町の旧役場庁舎前で、平野公三町長(59)が献花。「つらい5年だった。自ら命を絶ったり、辞めたりした職員もいたが、応援職員とともによくここまで来られた」
◇9時35分
コンビニ大手ローソンは東京都品川区の本社で、首都直下地震が起きたとの想定で社員の安否や備蓄品などを確認する訓練を実施。担当の郷内正勝取締役は社員らに「訓練を通じ、(災害時も)まちにとってなくてはならない存在になろう」と呼び掛けた。
◇10時01分
参院本会議の冒頭に山崎正昭議長が哀悼の意。「ご遺族に衷心よりお悔やみを申し上げ、被災された全ての方々にお見舞いを申し上げます」
◇10時30分
約500人が犠牲になった宮城県東松島市野蒜(のびる)地区にある長音寺で追悼法要。兄を亡くした住職の秋山公純さん(49)は約200人を前に「震災後の3月11日で初めて日が差したのではないか。皆さんの苦労も晴れてほしい」と言って青空を見上げた。
41人の行方が分かっていない岩手県宮古市田老地区の海岸で県警が捜索。津波で同県釜石市の自宅が半壊した盛岡西署の松下友香巡査(19)は「被災者と警察官、両方の気持ちが分かる。なんとか手掛かりを見つけたい」。
都内の原子力規制庁では、田中俊一・原子力規制委員会委員長が訓示。「5年たった今だからこそ、被災地の現状を知らなければならない。私たちにできることは福島第1原発の廃止措置に全力を尽くすことだ」
◇10時46分
福島県いわき市小浜町の追悼式。地震で倒れた家屋から住人を救助中、押し寄せた津波から逃げた漁師、熊谷泰夫さん(68)が「助けられず、ごめんな」と涙。
◇11時00分
名古屋市中区で岩手日報号外が配られた。受け取った愛知県常滑市の福祉施設職員、赤崎倫夫さん(65)は「被災地の情報に接することは大切。復興事業が生活再建につながっているか心配だ」。
◇11時30分
原発事故による全町避難が続く福島県富岡町の住民が入居する同県いわき市の仮設住宅の団地で慰霊式。参列した女性(85)は「仮設を出たら独りぼっちになるので不安」とぽつり。
◇11時36分
丸川珠代環境相は環境省内で「政府を挙げて復興は最優先課題。とりわけ(除染などを担当する)環境省は、我々が最前線にいるのだとの思いを共有したい」と幹部職員に訓示した。
◇14時40分
岐阜市のサラマンカホールでコンサート中に震度6弱の地震発生との想定で約600人が避難訓練。長谷川茉愛さん(17)は「ホールは階段が多い。お年寄りの手を引いてあげられれば良かった」。
◇12時00分
大阪市北区の関西電力本店前で、原発再稼働に反対する市民グループが抗議行動。「関電は(運転を差し止めた)大津地裁決定を認め、原発から撤退を」などと訴えた。
◇13時00分
津波で漂流しハワイで発見された宮城県石巻市の遊漁船「第2勝丸」が県の実習船に乗せられ帰還。保存会の伊藤武一会長(68)は「震災をくぐり抜け、無事に帰郷したことは奇跡だ」と感慨深げ。
◇13時05分
死者・行方不明者が1277人の岩手県大槌町にあるショッピングセンターの花屋に行列。店員の中村照美さん(50)は「まだまだ復興はこれから。何度も胸が締め付けられる思いで、お花を包みます」。
◇14時20分
兵庫県西宮市の関西学院大のランバス記念礼拝堂で「大震災5年記念礼拝」。仙台市で被災したジェフリー・メンセンディーク宗教センター宗教主事が「多くの人が負った大きな痛みは5年たってもなくならない」と語り、学生ら約60人が黙とうした。
◇14時23分
福島県の原発事故避難者らが暮らす東京都江東区の国家公務員住宅で追悼式。同県富岡町から避難した菅野洋子さん(74)は住民代表あいさつで「笑うことも増えたが、今も先は見えない」。
◇14時46分
東京電力の広瀬直己社長が福島第1原発で黙とう。約80人の社員を前に「月日がどんなにたっても、福島の責任を決して忘れることはない。風化はあり得ない」と述べた。
◇15時15分
福島県主催の追悼式で、津波で家族4人を亡くした南相馬市の菅野長八さん(64)が遺族代表として「私たちの将来には放射線の問題など課題が山積しているが、力を合わせ復興に取り組む」と誓った。
◇15時50分(日本時間)
インドのモディ首相がツイッターに日本語で「インドは被災者の方々に対し、深い共感の意を示します。私たちは日本人のレジリエンス(回復力)を称賛します」と投稿した。
2016年03月11日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾大震災5年:国立劇場で追悼式 両陛下も出席し復興誓う
東日本大震災の発生から5年となった11日、政府主催の追悼式が東京都千代田区の国立劇場で開かれ、遺族や安倍晋三首相、天皇、皇后両陛下ら計約1090人が参列し、地震発生時刻の午後2時46分に黙とうした。犠牲者を悼み、重い教訓をかみしめながら、引き続き復興に取り組むことを誓った。
岩手、宮城、福島の3県の遺族代表は、失った家族や帰れぬ故郷への思いを語った。安倍首相は式辞で「被災者に寄り添いながら、魅力ある地方の創生につながるような復興を実現していく」と表明。
天皇陛下は「困難の中にいる人々一人一人が取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います」と述べられた。
警察庁によると10日現在、震災の死者は1万5894人、3県の行方不明者は2561人。復興庁によると震災関連死は3410人、全国で約17万4000人が避難生活を送る。
発生から5年間の国の集中復興期間が終わり、2016年度から復興・創生期間に入る。原発事故で、福島県から県外に避難している住民は計約4万3000人。3県では計5万7000人以上がプレハブ仮設住宅で暮らす。(共同)
2016年03月11日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾【東日本大震災5年】両陛下、終わりなき「ご慰問の旅」 16日から福島、宮城へ
11日の東日本大震災五周年追悼式に臨席した天皇、皇后両陛下は、震災の発生から5年を経てもなお、変わらず被災者に思いを寄せ続けられている。16日からは5度目となる福島、宮城両県の被災地訪問が予定され、秋には岩手県への3度目の被災地訪問が予定されており、「ご慰問の旅」に終わりはない。
「ご苦労も多かったでしょう」。両陛下は昨年7月、福島県を2年ぶりに再訪し、福島市の復興公営住宅で同県の飯舘村や浪江町などから避難生活を送る住民らを励まされた。東京電力福島第1原発事故後の除染の進み具合について何度も質問される両陛下の姿に、被災者からは「故郷を本当に心配してくださっていると感じた」との声も上がった。
今月1618日の日程で、福島県を再訪するほか宮城県も再び訪問される。福島では、三春町に設けられた葛尾(かつらお)村役場の出張所で避難生活を送る村民と懇談される。宮城では、甚大な被害が出た女川町を震災後初めてご訪問。津波で駅舎などが流失したため内陸部に移設され、復興の象徴ともいわれるJR石巻線女川駅もご覧になる。皇后さまは昨年、石巻線の全線復旧を受けて女川駅を御歌(和歌)に詠まれていた。側近は「両陛下はこの5年間、片時も被災者のことを忘れられたことはなかったはず。女川のこともずっと気にかけておられた。追悼式のお言葉には、そういった被災地への思いが込められている」としている。
2016.3.11 21:57
産経新聞から
(引用)
犾【東日本大震災5年】歩いて帰って防災意識 3・11WALK
勤務先や学校から歩いて帰ることで防災意識を高めるイベント「3・11WALK」が11日行われ、各地で参加者たちは災害時の備えに思いを新たにした。
震災当日は鉄道の運休が相次ぎ、多くの帰宅困難者が出た。実際に歩いて帰宅することで、避難場所や経路に関する知識を身につけるほか、災害時への備えを見直すきっかけにしようと開催。河北新報社、福島民報社、岩手日報社、東京新聞などでつくる実行委員会が主催した。
イベントの公式サイトから参加を宣言でき、同日午後7時時点で、各地の約7千人が参加を宣言した。
東京都千代田区の有楽町駅前広場で開かれた出発式では、宮城県気仙沼市出身のマジシャン、マギー審司さんが「風化しないよう、忘れないで被災地を支えてほしい。あの時を思い出して歩いて帰ってほしい」と呼び掛けた。東京都新宿区の高校教諭、奥野あつ子さん(54)は「自分がどれくらいの時間で帰れるか覚えたい」と話していた。
2016.3.11 20:40
産経新聞から
(引用)
犾震災5年:見てて ばあちゃん 地震・津波研究へ
東日本大震災から11日で5年。大切な人を失った「あの日」。同じ思いを繰り返したくないと、津波や地震の研究を目指す大学生。子どもたちに励まされ起業した父。仮設住宅で1人暮らしの祖父は今も後悔が消えない。大切な人への思いを胸に、それぞれの5年を迎えた。
キャンパスを冷たく澄んだ空気が包んでいた。宮城県多賀城市出身の岩手大工学部1年、福田栞さん(19)はここで津波や地震の研究をしようと決めている。「もう誰にも同じ思いをさせないために」。進路を選ばせたのは、東日本大震災での祖母とのつらい別れだった。
2011年3月11日、中学2年だった福田さんは帰宅後、居間でテレビを見ていた。隣の和室には祖母マシノさん(当時73歳)がいる。普段と変わらない午後を揺れが襲った。
母がパート先から戻り小学5年の妹も帰ってきた。家の片付けをしていると「逃げろ」と外で声がした。母の車で高台を目指したが、渋滞する道路で津波にのまれた。
家族はばらばらになり、周囲の車の上へ逃れた。深夜になって自衛隊のボートが救助に来た。そこにうずくまる祖母の姿もあった。姉妹と祖母は近くのマンションの2階へ引き上げられた。
「また波が来るぞ」。誰かの声で大勢の人が上の階へ逃げ、福田さんも妹の手を引いて階段を上った。このために祖母とはぐれてしまう。水が引くまでの二晩ほどをマンションの一室で耐えた。
マンションを出て避難所で両親と再会できた。だが、母の言葉にはっとした。「おばあちゃんはどうしたの」。祖母は救助されて無事だとばかり思っていた。「私、置いて逃げてきちゃった」
祖母の遺体はあのマンションの奥の通路で見つかった。大量の水を飲んで体温が下がった祖母を助けようとした人がいたのだろう。毛布にくるまれていた。自分は気づかずに避難所へ逃れた。葬儀の日、大好きな父の涙を見た。「私のせいだ」
「祖母を置き去りにしたことを他人に知られたら」と不安になった。中学3年の時、被災をテーマに作文を書かされた。姉妹でボートから救助された後は<迷子になった>ことにした。市の弁論大会に出た時も<祖母を亡くしたけどいろんな人の支援に支えられた>とごまかした。ほめてくれる人もいた。だが、自己嫌悪だけが募った。
母も避難が遅れたと自分を責めていた。祖母の最期を家族で話すことはなかった。
福田さんに転機が訪れたのは高校1年の夏だ。内陸に住む同級生と震災について話していた時、何気ないひと言が胸に刺さった。「震災どうってことなかったよね」。県全体を見渡せば家族や家を失った人は一部だ。「大事なことが伝わっていないんだ」と感じた。
街に津波の高さを記す表示板を張って回る校内の防災活動に加わる。「こういう活動をしていれば、おばあちゃんが許してくれるかな」と思った。被災した学生らを支援する民間団体「ビヨンドトゥモロー」の活動にも参加してみた。同世代の若者に祖母との別れを打ち明けると、一緒に泣いてくれた。「話しても大丈夫なんだ」
3年生になり、進路に迷っていた時、両親から「何が一番学びたいの」と聞かれた。
「津波や地震のことをもっと知りたい」。それしか浮かばなかった。「引きずって生きることにならないか」とためらう気持ちもあったが、考えた末に選んだ先は、津波や地震が専門の研究室がある岩手大(盛岡市)だった。3年生から研究室に入り、卒業後は公務員として災害に強いまちづくりなどに携わりたい。「自分みたいに後悔したり、つらい思いをしたりする人を減らしたい」。今は素直にそう思える。
乗り越えたわけではない。優しい祖母が好きだったのに、ふと顔を思い出せない自分に気づいて泣く日もあった。「『5年もたって何やってるの』と思われるかもしれない。でも私はやっとスタートラインに立ったぐらい」
11日は多賀城で追悼式に参列する。祖母に伝えたい。「ごめんなさい」。そして「元気でやってるよ」と。【竹内良和】
2016年03月10日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾震災5年:聞きたい「じいじ」 守れなかった孫娘よ
東日本大震災から11日で5年。大切な人を失った「あの日」。同じ思いを繰り返したくないと、津波や地震の研究を目指す大学生。子どもたちに励まされ起業した父。仮設住宅で1人暮らしの祖父は今も後悔が消えない。大切な人への思いを胸に、それぞれの5年を迎える。
岩手県釜石市の市消防団副団長の鈴木堅一さん(72)は東日本大震災の津波で、息子家族3人と妻の計4人を一度に失った。今月末には50年近く活動してきた消防団から退く。多くの現場で活躍してきたが、5年前のことを「悲しいというより悔しい。もし自分が消防団に入っていなかったら、と思うこともある」と、1人で暮らす仮設住宅で自問自答している。
鈴木さんは、同市鵜住居(うのすまい)町の自宅で強い揺れを感じた。場所は津波で200人以上が犠牲になったとされる鵜住居地区防災センターのすぐ近くだった。異変があればすぐ現場に駆けつけていた鈴木さんは、この日も「消防さ行ってくる」と言い残し家を出た。消防職員で救急救命士だった長男の健幸さん(当時44歳)は非番で在宅していたが、孫の理子さん(同11歳)を「迎えに行く」と飛び出した。「その後で職場に行くつもりだったのでしょう」
理子さんが通っていた鵜住居小の児童は、隣接する釜石東中の生徒と集団で無事に避難し、全国から注目され「釜石の奇跡」と言われるようになった。だが、市は「奇跡」の言葉は使わず「釜石の出来事」と言い換えている。両校の児童・生徒計3人が犠牲になったからだ。理子さんはその一人。迎えに来た健幸さんと一緒に自宅に戻り、亡くなった。
鈴木さんが駆けつけた先は自宅から数キロ離れた根浜地区の水門だった。当時は現場に出て水門を閉める担当ではなかったが、鵜住居地区を担当する6分団は気心の知れた仲間の多い古巣。当然のように車を走らせたが、到着した水門はすでに地元の人が閉めた後。津波の大きさは想像をはるかに超え、迫る津波にアクセルを踏もうとしたが「震えてしまって」。海から離れた場所に車を置いて山に逃げ込んだ。その後は消防団の事務所を拠点に、遺体搬送や火事への対応などに忙殺され、家のことを考える余裕はなかった。
健幸さんと理子さん、妻信子さん(当時64歳)、嫁奈津子さん(同45歳)の4人が、ガレキが突き刺さった自宅2階で発見されたのは地震から4日目。健幸さんは家族を守るように手を広げて亡くなっていた。「ありがとう」。鈴木さんは思わず声をかけたが、それしか言葉は出てこなかった。
誰が悪いわけではない。自然災害だと理解もしている。だが、今でもふと思うことはある。「自分が消防団に入っていなかったら……」と。きっと家族と一緒に逃げただろうし、父の背中を見て育った健幸さんも消防職員になっていなかったかもしれない。「消防職員になった理由は聞かなかった。だけど、なったときはうれしかったよ」と鈴木さん。
今月末、半世紀近く所属した消防団から退くことを決めた。「震災は関係ない。潮時かなと思って」と多くは語ろうとしない。今の目標は自宅を再建すること。「再建は4人が亡くなったときに頭をよぎった。息子が建てた家だからね」。震災後に入った家では理子さんの「じいじ」という声が聞こえたという。「女の子の孫は理子だけ。めんこくてね」と鈴木さん。「ここにいるよと訴えていたのかも。遺体の発見後は聞こえてこないね。もう一度聞きたいのに」。11日は午後の追悼式に出席する前に、震災後に建てた墓で手を合わせるつもりだ。【中田博維】
2016年03月10日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾大震災5年:物流、ライフライン…非常時へ備え「BCP」
2011年の東日本大震災では、物流網の寸断や工場被災で企業活動に大きな影響が出た。企業は教訓を生かし、BCP(事業継続計画)の作成や災害に強い部品供給網作りなどで、非常時への備えを強化してきた。震災5年の節目を迎え、企業は改めて非常時の対応を見直している。
震災時にトヨタ自動車は部品メーカーの被災を受けて全面的な操業停止に追い込まれ、震災前の生産水準に戻るまでに数カ月を要した。こうした反省を踏まえ、約4000点の部品について膨大な生産情報を収集し、非常時に代替品を調達しやすい仕組みを構築してきた。
しかし、1月に発生したグループ会社の愛知製鋼の爆発事故では、組み立てラインが6日間の停止に追い込まれた。約9万台の生産に遅れが生じ、部品供給網のもろさを露呈した。
愛知製鋼が作る「特殊鋼」は、1000~2000点の部品に使われる材料だ。成分の違いや加熱のタイミングなどメーカー独自のノウハウがある。愛知製鋼では非常時に他社に製造を委託するプランを用意していた。だが「ノウハウを事前に他社に渡せば自分たちの首を絞める」(愛知製鋼幹部)として、情報公開を最小限にとどめていたため、生産再開が想定外に遅れた。トヨタも、下請け企業が緊急時に企業秘密をどう扱うかの検討は不十分で、増井敬二専務役員は「事業継続計画の策定は道半ば」と反省する。
今回の事故は、トヨタが強みにする「トヨタ生産方式」が災害時に裏目に出ることも改めて浮き彫りにした。在庫を極力減らしてコストを抑えるこの方式は、緊急時は部品の在庫不足で生産が維持できなくなる危険性も併せ持つ。トヨタは在庫と非常時対応のあり方を改めて議論していく考えだ。
一方、震災時に沿岸部に近い工場が被災したため、各社は工場の移転や免震化も進めている。スズキは今後想定される南海トラフ巨大地震に備えて静岡県にある工場などを19年に高台に移転させる計画だ。また茨城県の工場が被災した半導体大手のルネサスエレクトロニクスは13年9月までに同工場で免震設備を導入。震災時は生産再開に3カ月かかったが、現在は1カ月で再開できる見通しだ。【永井大介、竹地広憲】
◇BCP(事業継続計画)
Business Continuity Planの略称。大地震や大津波などの自然災害、感染症のまん延、テロ、基幹システムのトラブルといった深刻な事件・事故が発生した際、企業活動や行政機能への影響を最小限にとどめるための計画。
被害を受けた事務所や工場の代替施設の確保、指揮系統の確認、社員の安否確認を含む初動対応などを事前に定め、生産停止などのリスク低減を図る。
2001年の米同時多発テロ以降、注目された。国内でも11年の東日本大震災などを教訓にBCPを策定する企業が増加。内閣府が2014年に行った調査では策定したと答えた大企業が約5割。中堅企業では25.3%にとどまっている。
◇
震災時にライフラインを維持できるかどうかは、被災者の生活に大きく影響する。
コンビニエンスストア大手のファミリーマートは、震災で弁当などの食品工場が被災。代替の調達先を手配できず、一部の店舗で欠品が発生した。このため12年以降、震度5弱以上の地震の際に、取引先の被災状況も含めた情報を全社で共有し、生産、供給体制を迅速に立て直す仕組みを作った。
小売り大手のイオンも取引先の食品や日用品メーカー約50社と、出荷できる工場や倉庫の情報をインターネットで共有する仕組みを3月にスタート。千葉市にある本社機能が損なわれた場合に備えて「危機管理センター」を愛知県小牧市に設置した。
石油業界では、震災時に灯油やガソリンなどの供給が滞った反省を生かし、原油から石油製品を作る精油所では首都圏直下型地震などが想定される地域で、製品タンクの耐震補強や液状化対策を実施。中継基地となる油槽所で非常用発電機の導入を進めた。
このほか東京海上日動火災保険は、震災で自動車保険や火災保険の保険金請求が殺到し、事務処理が追いつかずに保険金の支払いまで最短で1週間かかったことを反省。事故受付システムを現地の代理店だけでなく、全社で受け付けられるようにして手続きのスピードを上げた。これらの取り組みで、保険金支払いまでの期間を最短で3~4日に短縮できるようになった。
金融機関は、預金者やその遺族が預金通帳や届け出印を紛失した場合でも、本人であることが確認できることを前提に預金払い戻しに応じたり、取引行以外でも1日10万円を上限に預金を引き出せるようにする方針だ。【岡大介、土屋渓】
2016年03月10日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾被災3県:小中学生2万5000人減 少子化に追い打ち
東日本大震災で大きな被害があった岩手、宮城、福島3県内の42市町村で、小中学生が震災前から約2万5000人減少したことが5日、各教育委員会への取材で分かった。12.2%の減少で、全国の小中学生の減少率5.2%を大きく上回る。被災地では学校の統廃合などが一層迫られ、復興の次世代の担い手が不足する懸念が強まっている。
42市町村は、津波被害に遭った沿岸部と東京電力福島第1原発事故の避難区域となった自治体。2010~15年度の5月1日時点の公立小中学校の児童・生徒数を集計した。
10年度の計21万2406人が、2万5877人減って、15年度は18万6529人だった。内陸部や他県に移り住んだのが影響した。以前から少子化傾向の強かった郡部で減少が激しく、仙台市や福島県いわき市といった都市部でも減少。両市は被災者の避難や転居の受け皿となり、15年国勢調査では人口増がみられたが、小中学生の数は減少する結果となった。
県別では、岩手が12市町村で4761人(21.2%)、宮城は15市町で8544人(6.2%)、福島は15市町村で1万2572人(24.1%)減少した。(共同)
2016年03月10日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾大震災5年:夕日に赤く染まる住宅跡 福島県浪江町
復旧工事のつち音が消えた夕暮れ時の福島県浪江町請戸地区。震災の津波で鉄骨がむき出しになった食堂や、基礎だけが残った住宅の跡が夕日に赤く染まる。
押し寄せた津波は2階天井に迫る高さだった。その後の東京電力福島第1原発事故で警戒区域に指定され、行方不明者の捜索や復旧活動は難航した。
かつて漁港として栄えた地区から、約8キロ南に第1原発の排気筒が見える。5年が過ぎ、同地区は避難指示解除準備区域に変わった。漁業関連施設の工事が行われているが、地区の再建はまだ始まったばかりだ。【小出洋平】
2016年03月9日
毎日新聞(無料)から
(引用)
犾被災地へ響け慰霊の鐘 3・11 2時46分 要誓寺、滋賀・長浜から支援
東日本大震災から5年となる11日、湖北の各寺院では災害が起こった午後2時46分にあわせ、犠牲者追悼の鐘が鳴る。要誓寺(長浜市早崎町)の早崎和典住職(41)は、今年初めて慰霊の鐘つきに参加する。震災の発生以来、出身地の仙台市を中心に東北で慰霊や法要を行ってきたが、被災地の復興とともに、長浜からの復興支援に注力する。「犠牲者を弔い、地元で被災地支援を呼びかけたい」と話している。
早崎住職は結婚後、熊本県内の寺院を経て要誓寺の住職になり、長浜に移った。その3年後に震災。仙台の実家の寺を拠点に、同じく住職の兄とともに東北一帯でボランティア活動に取り組んだ。
これまで東北へは40回以上足を運び、避難所などでの生活物資の配布や、子供たちの生活支援などを行ってきた。3月11日は、東北各地で行われる多くの法要に参加した。
「遠い東北まで支援活動に行くことができるご縁をいただいた私は幸せ。親鸞聖人が生きておられたら、きっとボランティア活動をされるはず」と話す。早崎住職が東北で活動している間は、妻の佳子さん(43)が要誓寺を守り、住職の不在を支えてきた。被災地が徐々に復興しつつあることから、早崎住職は支援の活動拠点を長浜に移すという。要誓寺では、子供たちが作った農産物を被災地に送る活動や、福島の子供たちの一時避難先として、滋賀などで受け入れる活動などに取り組んでいる。
湖北も明治時代には姉川大地震を経験するなど、地震災害と無縁ではない。11日の鐘つきは、被災地支援を通じ地域の防災意識も高めていきたいと祈りを込めるという。
2016.3.9 07:06
産経新聞から
(引用)
犾大震災5年:看護学科4年22歳仕事は、古里は…揺れる心
福島で被ばく問題と向き合う--。福島県浪江町出身で日本医療科学大学(埼玉県)看護学科4年、三瓶恵美(さんぺい・めぐみ)さん(22)はこの春、放射線災害時の医療やケアを専門的に学ぶため、福島県立医科大大学院の門をくぐる。高校2年生の時、東京電力福島第1原発事故が起き、古里は帰還困難区域に。傷つき、悩みながら進路を手探りする5年間だった。【杉山雄飛】
昨年8月、福島県川内村の山間部にあるバーベキュー場。被ばく医療について学ぶ大学生向け6泊7日のセミナーでの懇親会だった。日が暮れて、川のせせらぎの音が心地よい。三瓶さんは、講師の一人の長崎大大学院助教の折田真紀子さん(28)に思い切って話しかけた。「福島に帰っても何ができるか分かりません」
折田さんは長崎大が事故後に川内村に派遣した保健師で、土壌などの放射能汚染を測定し、住民にリスクについて正しい知識を伝える仕事をしていた。前年、看護学科の仲間と一緒に折田さんの話を聞く機会があった。「見ず知らずの土地に住み込んで住民に寄り添うなんてすごい」と憧れた。
被ばくについて真剣に考えたい気持ちと、知るほどに不安になる自分。揺れる思いを伝えた。折田さんは「大丈夫だよ。しっかり考えてるのが偉い」と言ってくれた。涙がボロボロ出た。「一緒に研究しよう。大学院に行って、やれることの幅を広げてみない?」。折田さんの言葉にうなずいた。
三瓶さんは浪江町津島で生まれ育った。祖父母、両親ら6人家族。乳用牛20頭以上を飼育する酪農家だった。原発事故が起き、一時は親戚ら約20人が実家に避難してきたが、数日後に事故の深刻さを知り、家族で郡山市に避難した。
通っていた県立双葉高校は県内四つのサテライト校に分かれた。三瓶さんは郡山市にある他校の校舎に間借りした教室に通った。
同級生らから「福島ナンバーだから洗車を断られた人がいた」などとうわさ話を聞いた。「被災者になりたくてなったわけじゃないのに」。自分は福島のために何ができるか。深い知識があったわけではないが、こう考えた。「被ばくの問題を抱えた人のために働く看護師になろう」
日本医療科学大学の看護学科に進学した。親睦のための合宿で初対面の同級生らに「放射線の影響で避難している」と話すと、場が重苦しくなった。都会での大学生活に慣れるにつれ「普通に生きたい」と思い始めた。福島で看護師になる気持ちは薄れた。
2年生の夏。震災直後に膵臓(すいぞう)がんが見つかった祖父文雄さん(当時74歳)が亡くなった。祖父は原発事故後に酪農をやめていた。
闘病中、看病の母を手伝いに病院に泊まり込んだ。夜中、大学の課題をこなしながら付き添っていると、意識がもうろうとしている文雄さんが「子牛が生まれる」と起き上がることがあった。三瓶さんは「朝起きてからね」と声をかけた。「おじいちゃんみたいな人がいっぱいいるんだろうな」。医療を志す自分を見つめ直した。
「福島に戻ろうか」。再びそう思い始めた時、折田さんに背中を押された。1日最低6時間の勉強を自らに課し、新設された大学院に合格した。
今、原発事故で傷ついた地域に向き合う保健師になりたいと考えている。三瓶さん自身、低線量被ばくへの不安が消えたわけではない。「でも私は専門知識を学んだ人間として、同じような思いの人に寄り添いたい。私にしかできないことがあると思う」
2016年03月9日
毎日新聞(無料)から
(引用)
↧
犾 1 犾【3,11】………
↧