犾
2017年01月20123456789日
毎日新聞(無料)から
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2017年01月20123456789日
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犾【京都】工事現場で土砂崩れ 2人死亡
20日午前、京都府大山崎町の工事現場で土砂が崩れ、58歳と19歳の作業員の親子が巻き込まれて死亡しました。
午前10時ごろ、大山崎町円明寺の工事現場から、「土砂が崩れ、作業員2人が土砂にはさまれています」と119番通報がありました。土砂崩れに巻き込まれたのは、大阪府門真市の配管作業員・緒方幸寿さん(58)と息子の遼さん(19)で、ドクターヘリで病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。警察によりますと、現場では下水管を埋めるために深さ2.5メートル、幅1メートルにわたって地面に穴が掘られていて、午前8時ごろから4人で土の壁を固める作業にあたっていたということです。現場は宅地造成地で、警察が、安全面に問題がなかったかなど、当時の状況を調べています。
2017年01月20日19:05
ABC NEWS 関西ニュースから
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犾阪神大震災:ベトナム難民、神戸の輪 口癖、しゃーないね
ベトナムから家族8人で難民として来日し、神戸市内で阪神大震災に遭遇したブ・ユイ・ルアンさん(70)=同市須磨区=の歩みは、小型船での脱出や地震による自宅の倒壊など苦難の連続だった。日本語の口癖は「しゃーないね」。しかし、震災から22年の現在は妻と子供、孫、ひ孫だけで計40人を超える親族に囲まれ、「死ぬまで神戸で過ごしたい」と幸せそうに笑顔を見せる。
カトリック教徒のルアンさんは共産党政権下での迫害から逃れるため、1981年に母国を船で脱出。83年に友人の紹介で神戸市長田区の靴部品の製造工場で働き始めた。
「怖くて頭が真っ白になった」。95年1月17日の阪神大震災は、地震の少ないベトナム出身のルアンさんにとって、未知の恐怖だった。全壊したマンションを必死に脱出し、通っていた長田区のカトリック鷹取教会の神父だった神田裕さん(58)の勧めで、近くの中学校で避難生活を始めた。最初の2週間は倒壊への恐怖で屋内に入れず、寒空の下で過ごした。兵役で身に着けた技を生かし、階段が崩れた自宅マンションを壁伝いに登って必要な物資を調達した。
当時、市内に住むベトナム人は約750人で大半が難民。ベトナム人テント村があった南駒栄公園では、支援物資の扱いを巡り、日本人と衝突が起きたこともあったが互いに顔や名前を覚えるうちに落ち着いていった。ルアンさんは「言葉は通じなかったが、お互いに助け合えた」と振り返る。
神田さんも義援金の受け取り方などベトナム語でまとめたチラシを配り、ラジオ放送などでも情報提供を続けてコミュニティーを支えた。ルアンさんは「宗教や自分を理解して話をしてくれるので、安心できた」と恩人に感謝している。
神田さんは「震災直後、生きるためにまず食事の確保に動いたベトナム人のたくましさを見て、社会的弱者は人間的弱者じゃないと気づかせてくれた」と話す。
市の集合住宅で大家族に囲まれながら暮らすルアンさんは、日々「しゃーないね」を連発している。その口調は諦めとは正反対で数々の苦難を乗り越えた力強さを感じさせた。【田中将隆】
2017年01月18日
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犾阪神大震災:「浜風の家」閉館へ 故・藤本義一さんら設立
作家の故・藤本義一さんらが阪神大震災の遺児・孤児の心のケアを目的に1999年1月17日、兵庫県芦屋市浜風町にオープンさせた「浜風の家」が来年春、閉館する見通しとなった。土地を無償貸与してきた兵庫県との契約期限が切れるため。遺児らも成人し、児童館になっていた。閉館を惜しむ声もあり、運営する社会福祉法人には「県に存続を要望したい」とする動きもある。
浜風の家は、藤本さんや歌手のさだまさしさんらの呼びかけで集まった約1億3000万円の募金を基に建設。2階建てのログハウス風で敷地面積は約1000平方メートル。集会室や図書室などがある。藤本さんが初代理事長だった社会福祉法人「のぞみ会」が運営。小児科医らの協力で遺児らの心のケアに当たったが、遺児らは2009年ごろまでに利用を終えたという。現在は児童館として年約1万人が利用する。
県企業庁によると、98年5月、藤本さんから「親を亡くした子供が成人するまで支援したい」との要望を受け、15年4月末までの有償貸与を契約。寄付金の減少などで財政状況が悪化したことから、県は04年4月に無償貸与に切り替えた。期限切れとなる15年に最長3年の延長を決めた。県は延長期限の終わる18年3月までに建物を取り壊して土地を返却するよう求めている。
長女(5)と利用する市内の主婦(30)は「当初の役割は終えても児童館として地域に根づいている」と残念がる。「のぞみ会」理事長で、藤本さんの妻統紀子(ときこ)さん(81)は「夫も、遺児らの心のケアの役割を十分に果たせたと理解してくれるはず。でも、利用者の要望もあり、できるなら残したかった」と話す。理事の一人は「土地の買い取りなど、存続の方策を検討し、県に要望したい」と述べた。【山本愛】
2017年01月18日
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犾阪神大震災22年:3世代の約束事、伝え続ける
阪神大震災の教訓を伝える「人と防災未来センター」(神戸市中央区)に17日、犠牲になった竹場瞳ちゃん(当時1歳2カ月)の家族の姿があった。祖父母、両親、弟、妹の3世代。「命を大切にすることを学んでほしい」と父満さん(51)が呼びかけ、約15年前から毎年続けてきた1・17の約束事だ。
震災の日。母典子さん(51)は、8日前に長男遼太郎さん(22)が生まれたばかりで、長女の瞳ちゃんと一緒に神戸市灘区の自宅近くの実家にいた。2階建ての住宅が倒壊し、1階で寝ていた瞳ちゃんと、典子さんの母(当時63歳)が帰らぬ人となった。同区で満さんの父繁さん(84)と母房江さん(83)が営んでいた銭湯も壊れ、下敷きになった房江さんは左半身不随に。自宅にいた満さんは無事だった。
瞳ちゃんは、銭湯でアイドルのような存在だった。よちよち歩いていると、常連客から「私がお風呂に入れてあげようね」と声を掛けられた。満さんは「よく笑い、ほんまに可愛らしい子やった」と頬を緩める。一方で、病院の医師が懸命に救命措置を続けても変わらなかった瞳ちゃんの表情も脳裏から離れない。
震災後、麻衣さん(19)、裕二郎さん(16)、美衣さん(10)と次々に子宝に恵まれた。満さんは4人の子供たちに、姉がいたことを伝え「死ぬことだけはアカン」と説いた。
今、子供たちは誕生日プレゼントを買い合うほど仲が良く、心配ごとが起きると「瞳姉ちゃんがついてくれとるから」と励まし合う。房江さんは「瞳ちゃんが見守ってくれているから、優しく仲の良い子たちに育ったのかな」と目を細める。
2002年にできたセンターでは、震災を追体験できるコーナーなどに毎年立ち寄る。再現度の高さから子供が泣いてしまうこともあるが、「震災の恐ろしさを知れば命の尊さが分かる」と通い続けている。07年には満さんと年長の子供3人が能登半島地震の被災地に駆け付け、家財道具撤去のボランティアに取り組んだ。
この日は、オーストラリア留学中の麻衣さんや遼太郎さん以外の6人がそろい、地震発生の午前5時46分に中央区の東遊園地で黙とう。墓参りをしてから、センターに足を運んだ。満さんは「震災はいつか風化していく。けれど、子供たちが命の大切さを次の世代に伝えていくようになってくれたら」と語った。【田中将隆】
2017年01月18日
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犾阪神大震災22年:大人になった姿見て 犠牲者の孫
阪神大震災の発生から22年となった17日、神戸市中央区の東遊園地で営まれた「1・17のつどい」で、初めて祈りをささげた遺族がいた。犠牲になった祖父の名前の一字を引き継ぎ、その意味をつかもうとする21歳の男性。「命を守ってもらった」という亡き祖母に、自らの成長を報告した29歳の女性。歳月を重ねてたどりついた決意や思いを、やっと伝えた。
■名前をくれた祖父に
「おじいちゃんから受け取った命を大切に生きていく」。神戸市北区の介護士、市井雄太郎さん(21)は竹灯籠(とうろう)を前に誓った。当時は須磨区に住んでいた祖父の逸見秀雄さん(当時69歳)は震災後の避難生活で体調を崩し、1カ月後に亡くなった。母明代さん(47)は震災から半年後に生まれた市井さんに「雄」の字をつけた。
中学生の一時期、不登校になったことがあった。墓参りの時、祖父のエピソードを聞いた。「誰にでも優しく、決して怒ることはなかった」。そして母はこう付け加えた。「雄太郎はおじいちゃんの生まれ変わりなんよ」。次第に「自分を変えたい」と気持ちを切り替えられるようになった。
「高校からは毎日、学校に通う」。そう決意した中学の卒業式当日、東日本大震災が発生した。「僕の名前は震災が無ければなかったかもしれない」。何かしなければと思った。夏休みなどに3回、被災地の宮城・牡鹿半島を訪ね、がれきの撤去やかきの養殖作業を手伝った。「若い人が来てくれると笑顔になれる」と感謝され、人のつながりや温かさを知った。
人の役に立ちたいと高校卒業後は介護施設に就職した。ボランティアで感じたことを祖父に伝えようと、つどいに参列し、決意を新たにした。「僕は孫の顔を見るまで、日々を大切に生き抜きたい。その日までおじいちゃんに見守ってほしい」
■守ってくれた祖母に
「おばあちゃん、今年30歳になるよ。楽しいよ」。神戸市西区のアルバイト、熊野洋美さん(29)は、祖母岡本文子さん(当時70歳)の名前が刻まれた「慰霊と復興のモニュメント」の銘板の前で大粒の涙を流した。
震災前日、小学2年生だった熊野さんは、神戸市長田区の祖母宅を訪ねていた。膝の上に座るのが大好きなおばあちゃん子。「家に泊まりたい」とぐずったが、普段は「ええよ」と許してくれるはずが、なぜか「今日はあかん。帰り」と聞き入れてくれなかった。
翌朝、岡本さんは全壊した自宅の下敷きになった。「あの時、おばあちゃんの家にいたら私の命もなかったかもしれない。守ってもらった」。熊野さんはそう思っている。
祖母を奪った震災の話題が嫌いだったが、東日本大震災が起き、気持ちが変わった。「生きてるって当たり前じゃないと多くの人に知ってほしい」。30歳を前に成長した自分を祖母に見てもらいたくて初めて参列したが、公園に集う人々を見てこうも考えた。「同じ思いの人がこんなにいる。来年は震災を知らない友達を連れてきてみようかな」【高橋祐貴、幸長由子】
2017年01月17日
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犾阪神大震災22年:「神戸と東北の思いは共有」語り継ぐ
6434人が亡くなった阪神大震災の発生から22年を迎えた17日、被災した各地では、夜にかけても犠牲者を追悼する行事が続けられた。東日本大震災(2011年3月11日)の遺族らも午後、神戸市中央区の東遊園地を訪問。「3・11」の文字が追加された竹灯籠(とうろう)の明かりの前で黙とうし、記憶と教訓を次の世代に語り継ぐ思いを新たにした。
東遊園地で早朝から続いた「1・17のつどい」の参列者は午後9時までに約4万4000人に上った。宮城県名取市・閖上(ゆりあげ)地区の住民が暮らす愛島(めでしま)東部団地仮設住宅自治会役員、長沼俊幸さん(54)は神戸のボランティアとの交流を続けている。「神戸と東北は思いを共有している。経験しなければ分からないことを、今後の災害に向け、ともに発信していきたい」と語った。
神戸市長田区の災害復興住宅「フレール長田」では住民らが「しのぶ会」を開いた。高齢化が進み、この1年で10人以上が亡くなったといい、会では震災犠牲者だけではなく、この人たちも追悼した。
市による借り上げ住宅のため、20年間の入居期限が17年度に迫る。妻裕美子さん(当時43歳)を震災で亡くした長尾政三さん(68)は「次の家に入れるのか、病院を変えないといけないのか、不安が広がっている。私は仮設を含めれば次で5カ所目の住まいになる。どこで死ねばいいのか」と嘆いた。
木造住宅などが密集し、市内で最も火災の被害が大きかった長田区のJR新長田駅前では午後5時46分、ペットボトルの灯籠の前で多くの人が手を合わせた。
近くに住む星澄子さん(84)は、姉の安田敏子さん(当時65歳)を失った。住んでいたマンションの下敷きになり、火災に見舞われた。焼け跡から、きれいにそろった遺骨が見つかったという。既に8人きょうだいの6人が亡くなり、「天国でみんな仲良うやってね」と語りかけた。
友人と訪れた大学1年、伊角(いすみ)菜々さん(19)=神戸市垂水区=は「震災は映像でしか知らないが、いつどこで災害が起きるか分からない。追悼行事は年々減っているが、風化を防ぐためにも顔を出し続けたい」と話した。【阪神大震災取材班】
2017年01月17日
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犾阪神大震災22年:弟を守ろうとした母へ「見守っていて」
阪神大震災から22年を迎えた17日の朝は、前夜の雨が上がり、澄んだ冷気が寒かったあの日を思い起こさせた。各地で営まれた追悼会場で、自宅の仏前で、出勤前にほこらの前で、犠牲になった大切な人に思いを巡らせ、手を合わせる人たちがいた。被災地は鎮魂の祈りに包まれた。
17日午前5時46分を少し過ぎたころ、食パンをきれいに切りそろえた三角形のサンドイッチを供えた自宅の仏壇に兵庫県芦屋市の中川由佳理さん(38)は静かに手を合わせた。父の手作りで、震災で逝った母と小学生だった弟のお気に入りだった。壊れた家で母は弟をかばうようにして亡くなった。中川さんは今、父と夫、幼い長男と暮らし、おなかに新たな命を宿す。何をおいても我が子を守ろうとした母。「お母さんのようになりたい。見守っていてね」
中川さんは震災当時、高校1年で16歳。神戸市東灘区の自宅が全壊し、母和子さん(当時43歳)と小学6年だった弟智仁さん(同12歳)が亡くなった。父と近所の人らが助け出し、通りがかりの車に頼んで病院に運んだが、救えなかった。22年前のあの日、立っていられない揺れの中で和子さんは智仁さんの部屋に駆けつけたと後に聞かされた。
「命を救う仕事をしたい」と看護師の道に進み、10年ほど勤務した。2010年6月、夫清教(きよのり)さん(42)と結婚し、翌年、長男晴翔(はると)ちゃん(5)が誕生。おなかに次男がいる。
最近は、おなかが大きくなって晴翔ちゃんと遊ぶのも一苦労だ。つい遺影を見上げて「お母さん、どうやってたん?」。聞きたいことはたくさんある。
毎年巡る1・17。父菊雄さん(62)は2人をしのぶうち、十数年前からサンドイッチを仏前に供え始めた。料理好きで、仕事が休みの日の昼食にサンドイッチを作った。卵焼きやトマト、レタスなどがきれいに挟んである。和子さんも智仁さんも大好きだった。震災で失った、温かで優しかった食卓。「あの朝、お母さんは自らを顧みず、弟を助けようとした。私なら、お母さんのようにできるだろうか」。手を合わせながら涙が込み上げた。「何とか助けたかった」
おなかの子が生まれれば和子さんと同じ2児の母。「お母さんのように家族に尽くしたい。見ていてほしい」と願った。【釣田祐喜】
2017年01月17日
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犾阪神大震災22年:熊本の子と「命の一本桜」…東遊園地
6434人が犠牲になり、3人が行方不明となった阪神大震災の被災地は17日、発生から丸22年の朝を迎えた。
神戸市中央区の東遊園地で営まれた「1・17のつどい」の会場では、昨年4月の熊本地震で被災した小学生と神戸の子供たちが、手形を使って巨大な「命の一本桜」の絵を完成させた。
東日本大震災以降、被災した子供たちに「春のぬくもり」を感じてもらおうと、手形の桜で交流を続ける神戸市の絵画教室「アトリエ太陽の子」(中嶋洋子代表)が企画した。
中嶋代表らは昨年6月、熊本県御船町を訪問。通学路の土砂崩れのため、近くの中学校を間借りして授業を続けていた町立滝尾小学校の児童と交流した。
滝尾小の児童は17日午前5時46分に東遊園地の竹灯籠(とうろう)前で祈りをささげた後、そばのテント内で作品づくりに取り組んだ。縦3.2メートル、横7メートルの紙に、桃色の絵の具を塗った手を次々に押し当て、色鮮やかな満開の桜を咲かせた。
滝尾小6年の中村恵都(けいと)さん(12)は「神戸は恐ろしい震災から立ち直ったと思った。熊本も早くこうなりたい」と話した。【矢澤秀範】
2017年01月17日
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犾阪神大震災22年:午前5時46分、追悼のトランペット
阪神大震災から22年を迎えた17日の朝は、前夜の雨が上がり、澄んだ冷気が寒かったあの日を思い起こさせた。「頑張っているよ」「見守っていてね」。各地で営まれた追悼会場で、自宅の仏前で、出勤前にほこらの前で、犠牲になった大切な人に思いを巡らせ、手を合わせる人たちがいた。被災地は鎮魂の祈りに包まれた。
神戸市街を一望できる諏訪山公園(神戸市中央区)のビーナスブリッジでは午前5時46分、トランペット奏者、松平晃さん(74)による追悼の演奏がこだまし、約80人が黙とうした。毎年恒例の「早朝追悼のつどい」。実行委員会メンバーのほとんどが80~90代になった。「継いでくれる若い人がいるのか」。存続させるか気持ちが揺れ動く中で震災22年を迎えた。
「神戸で天国に一番近い場所での追悼」として市民団体が企画した行事。2007年の十三回忌でいったん終了したが、存続を望む声に応え、「有志によるつどい」として続いてきた。
実行委員長を務めてきたのは、ポートアイランド第3仮設住宅の自治会長だった安田秋成さん(91)=同市兵庫区。「命ある限り続けたい」と考えていたが、近年は心身の衰えを感じ、4年前には妻を亡くして復興住宅での1人暮らしに。「さすがに気力が続かない」と引き際を考えるようになった。
他のメンバーも諏訪山まで自力で歩いて準備することが難しくなった。安田さんは「この場に立つと続けたいという思いも強くなるが、今後については検討したい」と話した。【田中将隆、井上卓也】
2017年01月17日
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犾阪神大震災22年:熊本・益城で豚まん提供…神戸の被災者
熊本地震の被災地・熊本県益城(ましき)町では17日、阪神大震災で被災した神戸市の中華料理店の店主らが豚まん2400個を仮設団地で暮らす住民たちに提供した。ともに頑張っていこうとの気持ちを込め、2012年から東日本大震災で被災した宮城県で実施しており、今年は熊本を訪れた。
店主らは熊本最大の仮設団地のテクノ仮設団地(約500戸)で豚まんを蒸し、3個1セットで配った。発起人の一人で、神戸市の中華街・南京町で中華料理店「老祥記(ろうしょうき)」を経営し、阪神大震災では自宅が半壊した曹英生(そうえいせい)さん(60)は「ささやかな贈り物だが、熊本の人たちにつかの間でも笑顔になってほしい」と話した。
自宅が全壊し、テクノ仮設住宅で妻と暮らす福永勉さん(75)は「感謝の一言に尽きる。今は住む家も決まっていないが、前向きに生きなければならないと思った」と喜んだ。【山下俊輔】
2017年01月17日
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犾阪神大震災22年:復興住宅進む高齢化 65歳以上52%
6434人が犠牲になった阪神大震災(1995年)の発生から17日で22年。最も大きな被害を受けた神戸市は、今年度で「災害復旧債」(借金)の返済を終える見通しで、復興した中心繁華街・三宮をさらに再開発する計画を本格化させている。一方、被災者の高齢化は進む。兵庫県内の災害復興公営住宅に住む65歳以上のお年寄りの割合(高齢化率)は2016年11月現在で52.2%と過去最高を更新し、孤立を防ぐ対策が急務になっている。
神戸市は、倒壊建物のがれき処理や道路整備など災害復旧事業に一般会計で総額4834億円を費やした。このうち、市が発行した災害復旧債は1996億円。96年度から始まった返済は、今年度中に終了する見込みとなり、一つの区切りを迎える。「ポスト震災20年」の動きも活発になっている。三宮では、阪急電鉄の神戸三宮駅ビル建て替え工事や、JR三ノ宮駅前のバスターミナルビル建設の協議が始まっている。
復興住宅の高齢化率は、兵庫県平均(26.9%)の倍近い高さだ。復興住宅での「孤独死」も16年は65人(被災者以外が含まれる可能性がある)と過去10年で最多を記録しており、入居者が直面する環境の厳しさがうかがえる。【阪神大震災取材班】
2017年01月16日
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【珒関西地方ニュース】竑53鈊
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